弱い証拠をいくら積み重ねても、確かな証拠にはならない。
ちなみに「弱い」は「証拠」にかかる修飾語だが、こういう事を言うと、弱いのは、その「人」だという論理を誘発しかねない。実際、弱い証拠を強い証拠にするには、ヒューマンファクタ、つまり人間関係的な圧力、ないし社会的圧力が多用される。事実上の「宣言」「宣告」が重視される。
かつて、「批判」する者に対して実際に行われた事である。また、批判する者どうしの間でも、それは行われる所が、喜劇的である。
考古学は「歴史学」として見ると、弱い証拠の集まりである。ただ、それらの「弱い証拠」は考古学にとっては掛替えのない物である。これは「生き様」に近い。
証拠自体に弱いも強いもないという議論はありうる。証拠能力は適切に評価すればいいだけの事で、弱くても言える事はある。目標とするものは「歴史学」とずれるかもしれないが(例えば型式論)、接点があまりないにしても、それを以って「弱い」というのは、自虐的かもしれない。
しからば言い換えると、弱い証拠を積み重ねても、歴史学の強い証拠とはならない、である。
#結論を書いてしまうと、考古学は歴史学じゃないというのが正解だと思う。人類学が歴史学じゃないのと同じである。考古学や人類学に時間軸がないという意味ではない。